蜂蜜色のみずたまり 本文サンプル

■放課後の生徒会室

 紙にペンを走らせる音と時計の秒針が時を刻む音が妙に耳につく。
 手元の書類に書かれている内容を確認し、春日知佳は必死にペンを動かしていた。
 窓の外からは練習に励む運動部の声や吹奏楽部の演奏が聞こえてくるが、生徒会室の中にはピリピリとした空気が漂っていた。
「あ〜〜青葉ちゃんがいてくれればなぁ」
「そもそもお前のせいだろ! 黙って手ぇ動かせ!」
 ぼやく副会長の三好司に向けて一喝したのは生徒会長の楠木旭だ。
 今日が提出期限の書類の存在を司がいままで忘れていたために、生徒会役員は急遽全員招集されることになったのだ。全員、といっても頼みの綱であった女子副会長の斎藤青葉は運悪く欠席しており、まだ仕事に慣れていない一年生は呼んでいないため、この三人しかいないのだけれど。
 司は肩を竦めて仕事を再開したが、隣の机で手を動かしていた知佳は、開きかけていた口をそっと噤んだ。
(どうしよう……)
 こっそりと左手を机の下へ持っていき、スカートの端をぎゅっと握る。
 脚はもじもじと落ち着きなく擦り合わせている。見咎められたら恥ずかしいのだけれど、じっと座っていることができない。
 生徒会室にやって来る前から、知佳はトイレに行きたいのを我慢していた。
 ホームルームが終わったらトイレに行こうと思っていたのだが、放課後になった途端に、三年生の旭が迎えに来て生徒会室まで連行されてしまったのだ。腕を引かれながら歩く道中で「トイレに行きたい」と言い出すことは恥ずかしくてできなかった。
 仕事を始めたらもちろん席を外すことなどできるわけがなく、尿意を催してから二時間近く我慢を続けていた。休み時間に行っておけばよかった、と後悔するものの今更どうしようもない。
(うぅ……トイレ行きたいよぉ……)
 ぎゅう、と膝を寄せて尿意の波に耐える。
 仕事を終わらせるまで生徒会室から出ることは許されないだろう。
 離席を願おうと何度か口を開こうとはしたのだが、タイミングが掴めない。何より、殺気立った様子の旭に声をかけることは躊躇われた。
 どうして期限ぎりぎりまで書類を溜め込んでいたのだろう、と幼少の頃より顔見知りの副会長に向けて恨みがましい視線を向けてしまう。
 早く仕事を終わらせればこの我慢からも解放されるのだが、知佳は尿意を堪えることに精一杯で、一枚の書類を仕上げるだけでも時間がかかっていた。
 数行ペンを進めては、襲われる波に耐えるため片手でさりげなくスカートの上から太腿の辺りを押さえてしまう。内腿はきつく寄せ、脚は時折小刻みに震えていた。
 お腹が重たい。膀胱の中には我慢を重ねたおしっこがたっぷりと詰まっている。
 全ての書類を片付けるまで我慢できるだろうか――否。すでに相当切羽詰まっている。
(このままだと、おもらししちゃう――?)
 最悪の事態が脳裏を過ぎり、知佳はぶるりと身震いした。
 そんなの嫌だ。高校生にもなって。恥ずかしくて死んでしまう。
 それに、いまの旭は機嫌が悪い。そんな粗相をしたら烈火の如く怒られるに決まっている。
 トイレに行かせてと頼んでみようか。
 いくら日頃から鬼、悪魔、冷血漢と恐れられている彼とはいえ、生理現象の我慢を強要してくることはさすがにないのでは。
 ちら、と会長用の机に座る旭の顔をそっと窺うが、喉の奥が凍り付いたかのように声が出ない。やっぱり怒られるかもしれないし、羞恥心が邪魔をして言い出せない。
 どうしよう、どうしよう――。
「――知佳、どうしたの? 具合でも悪い?」
 突然、司の囁き声が聞こえて、知佳ははっとした。気付けば手が止まっていた。
「な、なんでもない」
 ごく小さな声で応えるが、その声は震えてしまった。
「うそ。さっきから辛そうだよ」
「だい、じょぶ、だから……」
 僅かな声を発するだけで、膀胱が刺激されるような気がする。
 ふいに強い尿意に襲われて、知佳は思わず両手で腿の間を押さえた。ぎゅう、と力を込めるが、身体は限界を訴えてくる。
「もしかして――」
 彼女の様子を見て、司は何かに気付いたように目を丸くした。
「テメーら無駄口叩いてないで手を動かせ!」
 司の呟きは、旭の怒声に掻き消された。
 バン、と机を叩いて立ち上がった旭の怒鳴り声に、知佳はびくりと震えた。一瞬、身体の力が抜ける。
「ぁ……」
 じわっと下着が濡れて、手にも温かい感触が広がった。
 押さえる手に強く力を込めるが抵抗も空しく、指の間を漏れ出したものは椅子を濡らしていく。お尻の下に広がった温かい液体は、水音を立てて床に水たまりを作り上げていった。
 ――時間が、止まったみたいだった。

■お泊りデート

「いらっしゃい」
 インターホンを鳴らして一分もしないうちに、家主である一条柚樹はにっこりと笑みを浮かべて扉を開けた。
「お、お邪魔、します」
「どうぞ、上がって」
 緊張した面持ちで、桜木綾音は玄関に足を踏み入れた。脱いだ靴をきちんと揃えて、彼のあとについて短い廊下を歩いていく。
 ――生まれて初めての、彼氏の家にお泊りデート。
 付き合い始めて一年半。大学生になってから一人暮らしを始めた彼の部屋に訪れたことは何度もあるが、泊まるのは今日が初めてだ。週末によかったら泊まりに来ないかと誘われて、少し迷ったけど誘いに応じることにした。
 最近、なかなか柚樹と会うことができなくて寂しかったのだ。彼が高校生の頃は、生徒会室に行けば毎日のように顔を合わせられたのにと、去年の自分が羨ましい。
「適当に座って。お茶淹れるね」
「あ、手伝いますっ」
「大丈夫。綾音ちゃんは座ってて」
 にこりと微笑まれては言うことを聞くしかない。
 いつ来ても綺麗に整理されている1Kの部屋。余計なものがほとんど置かれていない室内は彼の几帳面な性格が表れている。
 おとなしくラグの上にすとんと座って待っていると、柑橘系の香りが鼻孔をくすぐった。トワイニングのレディグレイ。綾音が一番好きな紅茶だ。
 ガラステーブルにお揃いのマグカップがことんと置かれる。彼は普段コーヒー派なのに、綾音のためにわざわざ用意してくれたのが嬉しい。
「あ、私、マドレーヌ作ってきたんです」
「ほんと? 嬉しいな」
 鞄を引き寄せて、出かける前に作ってきたマドレーヌを取り出す。ラッピングの包装を取って一口頬張り、柚樹は表情を緩ませた。
「おいしい。綾音ちゃんのお菓子食べるの久しぶりだな」
「最近なかなか会えなかったから……」
 自分の分のマドレーヌを齧り、我ながらおいしく作れたなと内心で自画自賛する。もちろん作ったときに味見はしたのだけれど。
「そういえば、綾音ちゃん、大学は決めた?」
 ふいに訊かれて、ぎくりとする。
「いま進路の話するんですかぁ……!?」
「ごめんごめん、でももうすぐ受験生なんだから。そろそろちゃんと考えないと」
「わかってますよぅ。先輩と同じところ……はちょっと、厳しいので、違うところにするつもりですけど。栄養士の勉強したいなぁって思ってて」
 柚樹と同じ大学に通いたいという気持ちもあるのだが、偏差値がとてつもなく高いので綾音の成績ではどう考えても届きそうにない。
 それに不純な動機で興味のない大学を目指すよりも、自分が好きなものに関することを学びたいと思ったのだ。料理やお菓子作りが好きだから栄養士を目指す、なんて安直すぎるかもしれないけれど。
「綾音ちゃんがやりたいことならいいんじゃないかな。俺は応援するよ」
「でも、大学選びってどうしたらいいかわからなくて。家から通える範囲でもたくさんあるし……」
「うーん、俺は一年のときからいまの大学行きたかったからなぁ。やっぱり夏休みにオープンキャンパスとか行って、雰囲気見て来るといいんじゃないか?」
「そうですよね……ね、今日はもう堅苦しい話はやめにしませんか? 家でも学校でも進路のこと言われてるんですよー」
「悪かったって。そうだ、前に見たいって言ってた映画借りてきたよ。いまから見る?」
「わぁ、見たいです!」
 思わずはしゃいだ声を上げてしまう。好きな小説が原作の映画で、映画館に見に行こうか悩んだのだけれど二時間半と上映時間が長いので諦めてしまったのだ。そろそろレンタルが始まる頃だなと思っていたから嬉しい。
 DVDをセットしてソファに腰かける彼の隣にいそいそと座る。肩をそっと抱き寄せられて、どきんと胸が高鳴った。
 頬が熱を持つのを感じながら、テレビ画面に目を向ける。
 原作の流れに沿ってストーリーが進んでいく。出演している俳優も、自分が抱いていた登場人物のイメージに合っている。好きな作品が映画やドラマになったとき、イメージと違うと見るのが嫌になってしまうことがあるが、この作品は丁寧に作られているなと思う。
 大きいスクリーンで見られたらもっとよかったのかなと少しだけ後悔してしまうが、映画館に行くのはちょっと苦手なのだ。
 一時間半が経ったところで、下腹部が重たくなってきた。こそっと膝を擦り合わせて気を紛らわせようとするが、一度その感覚が気になるとずっとそのことばかりが頭の片隅にこびりついてしまう。
 段々、画面に集中できなくなってきた。紅茶を飲んだせいかな。再生し始める前に行っておけばよかった。
 恥ずかしさを感じながら、隣に座る柚樹の袖をそっと引く。すぐに気付いた彼は、一時停止のボタンを押してくれた。
「行っておいで」
 優しく微笑まれて、そろそろとソファから立ち上がる。柚樹に見られないように一瞬だけスカートの前を押さえて、小走りに手洗いへ向かった。――これが、映画館に行くのが苦手な理由だ。


■初恋の人

 あたしの初恋は四歳のときだった。
 土曜日の午後、お母さんが急な用事で出かけなきゃいけなくなって、お父さんも仕事に行っていて、一人で留守番はさせられないからと隣の松葉さんの家に連れていかれた。
 松葉さんのおうちもご両親が出かけていて、六年生の優一くん――そのときは優おにいちゃんと呼んでいた――しかいなかったけれど、二〜三時間だけだからと言って、あたしを置いて出かけてしまった。
 優おにいちゃんと一緒に遊んだことはそれまでも何度かあったけれど、家族ぐるみで出かけたり、彼のお母さんが家にいるときに預けられたりするようなときばかりだったから、二人きりになるのは初めてで幼心に緊張していた。
 優おにいちゃんは嫌がることなくお母さんの頼みを引き受けた。お菓子とジュースを出してくれて、あたしが退屈しないように遊んでくれた。
 一緒にお絵かきをしたりアニメを見たりしているうちに、おなかがむずむずしてきた。
 おしっこ、行きたい。
 おうちと幼稚園のトイレなら一人で行けるけど、他の場所のトイレはなんだか怖かった。いつもなら優おにいちゃんのお母さんが一緒についてきてくれるけど、男の子の優おにいちゃんに「おしっこついてきて」と言うのは恥ずかしくて言えなかった。
 お母さんが来てくれるまで我慢しよう。そう決めて、膝をぎゅっと抱えて好きなアニメが映っているテレビ画面をじっと見つめていた。おしっこなんて行きたくないもん。そう自分に言い聞かせていたけれど、だんだんおへその奥のほうが重たくなってきて、もじもじと身体を揺すってしまった。
「早耶ちゃん、おしっこ?」
 隣に座っていた優おにいちゃんが訊いてくれたのに、あたしは気付かれてしまったことが恥ずかしくて、思わず首を横に振ってしまった。
 ちがう。ちがうもん。おしっこじゃないもん。
 優おにいちゃんは困ったような顔をしたけれど、強引にトイレに連れていくようなことはしなかった。素直に「おしっこしたい」って言えばきっと連れていってもらえるのに、あたしはどうしても口にすることができなかった。
 我慢できるもん。おしっこなんてしたくないもん。
 そう思っていてもあたしの小さな膀胱はすぐにいっぱいになってしまって、あっ、と思ったときにはパンツの中が温かくなっていた。じゃあー、と水道の蛇口をひねったみたいな音がして、お尻の下がびしょびしょになる。
 おもらししちゃったんだ。
 そう気付いた瞬間、泣き出してしまった。
「早耶ちゃん、大丈夫だよ。濡れちゃって気持ち悪いね、着替えようね」
 優おにいちゃんは怒ることなく頭を撫でてくれた。
 泣きじゃくるあたしを宥めながら濡れたパンツを脱がせて、おしっこで汚れた肌をタオルできれいに拭いてくれた。
 びしょびしょになったワンピースも脱がせてくれて、代わりに彼のTシャツを着せてくれた。優おにいちゃんの服はあたしには大きくて、最初に着ていたワンピースよりも丈が長かった。
「スースーするかもしれないけど、お母さんが迎えに来るまで少し我慢してね」
「うん……ゆうおにいちゃん、ごめんなさい……」
「気にしなくていいよ。次から、おしっこ行きたいときはちゃんと教えてね」
 あたしを安心させるように、優おにいちゃんはにっこりと笑顔を浮かべた。
 おしっこで汚してしまったリビングの床もタオルできれいに拭いてくれた。
 幼稚園でおもらししちゃったとき、クラスの男の子はいじわるなことを言ったりからかってきたりする子ばっかりだったのに、優おにいちゃんは優しくて、大丈夫だよって言ってくれた。恥ずかしかったけど、でも、嬉しかった。
 迎えにきたお母さんは大きいTシャツを着ているあたしを見てびっくりしていたけど、優おにいちゃんが頭を下げて謝ってくれた。
「ごめんなさい。おれがちゃんと見てなくて、早耶ちゃんがトイレ我慢してるの気付かなかったんです。怒らないであげてください」
 そんな優おにいちゃんを見ていると自分がすごく悪いことをしてしまった気がして、泣きそうになりながらお母さんの服を必死で引っ張った。
「ママ、ちがうの。さやがおしっこっていえなかったの。ゆうおにいちゃんわるくないよ」
「あらあら、そうだったの。優一くん、早耶がご迷惑かけちゃってごめんね。面倒見てくれてありがとう。早耶もありがとう言った?」
 ごめんなさいは言ったけど、ありがとうは言っていなかったとそのとき気が付いた。
「ゆうおにいちゃん、ありがとう」
「ううん。どういたしまして」
 そう言って、優おにいちゃんはふわりと柔らかく微笑んだ。
 胸が、どきんとしたのを覚えている。

 ――そのときから、あたし、小鳥遊早耶は、お隣に住む松葉優一に恋をしている。


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