蜂蜜色のみずたまり

 ――水音が、廊下へ降り注いだ。
 早瀬さんの脚の間から、ぱしゃぱしゃと音を立てて流れ落ちた黄色い滝が廊下に水たまりを広げていく。
 どうしてこんな光景を目にしているのか。
 僕はただぼんやりと、事の発端を思い返していた。

***

 昼食後の授業ほど気怠いものはこの世に存在しないと思う。
 ほどよい満腹感と暖かな陽気のせいで襲い来る睡魔を堪えつつ、耳を素通りしていく先生の話を聞き、やる気なく板書をノートに書き写す。
 あくびを噛み殺しながらなんとなく右隣に視線を向けると、隣の席の早瀬さんが妙に落ち着かない様子なのが目についた。
 顔は俯きがちで、シャーペンを握る手が心なしか震えているように見える。
 真面目な優等生、という雰囲気で実際にクラス委員も務めているのに、白いノートに書かれた文字は酷く歪だった。
 僕と同じように睡魔と戦っているのだろうか、と思ったが、それにしては様子が変だ。
 頬が紅潮していて、きゅっと引き結ばれた唇から時折吐き出される息は妙に熱っぽくてなんだか苦しそうだ。さらさらの黒髪が流れる肩は、何かを堪えるかのように力が入っている。
 ――具合が悪いのかな。お腹でも痛いのだろうか。女の子特有のやつ、とか。
 彼女から視線を外して、ちら、と教室の壁にかかっている時計を見る。授業時間は残り三十分。まだまだ時間がある。もう一度、顔の向きは変えずに視線だけを動かして早瀬さんの様子を窺うと、やはり具合が悪そうに見えた。
 体調が悪いのなら我慢せずに教室を出ればいいのにと思うが、真面目そうな彼女だから先生に声をかけるのを躊躇っているのかもしれない。
「……先生」
 僅かに考えたのち、そっと手を挙げた。古文の解説をしていた先生が、気付いてこちらに顔を向ける。
「どうした、八木」
「早瀬さんが体調悪そうなので、保健室に連れていきます。僕、保健委員なんで」
「そうか、早瀬、大丈夫か?」
「あっ……すみません、少し気分が悪くて……」
 顔を上げた早瀬さんは戸惑ったようにしながら、小さな声で応えた。
 その様子はやはり調子が悪そうで、先生はすぐに納得した。
「確かに顔色悪いな。八木、付き添ってあげなさい」
「はい。早瀬さん、行こう」
「う、うん……」
 席を立って促すと、早瀬さんはそろそろと立ち上がった。二人で連れ立って教室を出る。
 授業中のため静寂に包まれた廊下を無言で歩いていく。僕の少し後ろを歩く早瀬さんの歩みはゆっくりで、なんだか身体が震えている。気遣う言葉をかけたほうがいいのか迷ったが、こんなとき女の子になんと言うのが正しいのかわからない。
 「大丈夫?」なんて聞いても、どう見ても大丈夫ではないだろうし。それでも何か言ったほうがいいかもしれないと、渡り廊下の手前でようやく口を開いた。
「あ、あの、具合悪いときは、我慢しないほうがいいよ」
 そう、口にした途端。突然、早瀬さんが足を止めてしゃがみ込んだ。
「だ、大丈夫!?」
 気分が悪いのかと思い慌てて振り返る。もしかして吐きそうなのかと焦って、こんなときどうしたらいいのかと内心慌てふためく。
 早瀬さんは深く俯いて、スカートの端をぎゅっと握り締めている。
 戸惑いながらも彼女に近付こうと一歩踏み出したそのとき――水音が、廊下に降り注いだ。
「……え?」
 予想外のことに、思わず、身体が硬直してしまう。
 ぱしゃぱしゃと音を立てて、黄色い滝が廊下に叩きつけられる。
 早瀬さんは具合が悪いのを我慢していたんじゃなくて、おしっこを我慢していたのだと、その瞬間になって初めて気が付いた。
 見ていてはいけないと思いながらも、目を逸らすことができない。
 俯いた早瀬さんの表情は見えない。ぴったりと寄せられた膝は震えていて、しゃがんでいるために見えてしまう太腿の奥、淡いピンク色の下着は色を濃く変えて次々と水流を溢れさせている。グレーのプリーツスカートは、濡れたところが黒く染まっていく。
 ――蜂蜜色だ、と思った。
 早瀬さんのおなかにたっぷりと蓄えられていたおしっこは、時間をかけて廊下に水たまりを描いていく。リノリウムの床に広がる、蜂蜜色の水たまり。
 舐めたら甘いのかな、なんて、馬鹿なことを考えてしまう。
 永遠に止まらないのではないかと思うほど長く続いた水音は、次第に勢いが衰え、ぴちゃぴちゃと水滴を落として止まった。
「…………」
 気まずい沈黙が、その場を支配した。
「……あ、あの、早瀬さん……?」
 勇気を振り絞って、なんとか声をかける。
 のろのろと、早瀬さんが顔を上げた。瞳が、潤んでいる。
「えっと……とりあえず保健室、行く?」
 躊躇いがちに手を差し出す。もしかしたら嫌がられるかもしれないかと思ったが、早瀬さんはおずおずと僕の手を掴んで立ち上がった。ぴちゃん、と滴り落ちた水滴が水たまりに波紋を作る。
「……っ」
 くしゃりと彼女の顔が歪んだ。瞳から溢れた涙が頬を伝う。泣き顔を見られたくないのか、早瀬さんは再び深く俯いてしまった。押し殺した泣き声が、人気のない廊下でどうしても耳に入ってくる。
 どうしよう、と途方に暮れる。慰めたほうがいいのかな。
 小学生の妹相手になら頭を撫でたり背中を撫でたりして慰めてやるが、さすがに同い年の女子にそれをやるのは失礼だということくらいはわかる。けれどいつまでもここでこうして立ち尽くしているわけにもいかない。握った手に、少しだけ力を込めた。
「ごめん、全然、気付かなくて。でも、別に引いたりしてないから……だから、えっと、そんなに泣かないで……?」
 上手く言葉にできないのをもどかしく思いながら、早瀬さんに言葉をかける。
「絶対、誰にも言わないから」
「……ほんとに?」
 不安そうな声が、小さく聞こえる。早瀬さんは俯いたままだ。
「うん。絶対、約束する。……誰か来るといけないし、保健室行こう?」
「……うん」
 力強く頷くと、早瀬さんはようやく少しだけ顔を上げて、小さく頷いてくれた。
 汚れた床をそのままにしていいものか少しだけ迷ったが、彼女を保健室に連れていくほうが先だと、そっと手を引いて歩き出した。
 人のいない渡り廊下を歩いて、特別教室などがある隣の棟へ向かう。保健室は一番手前にある。少しだけ緊張しながら、ドアを叩いた。
「はーい。どうぞー」
 保健室の中から養護教諭の先生が応えた。
 そっとドアを開ける。こちらに顔を向けた先生と、ばっちり目が合った。
「あなた、保健委員の……ええと」
「一年三組の八木拓夢です。同じクラスの早瀬鈴香さんが、えっと、」
 なんと言えばいいのか、一瞬言葉に詰まる。
「……おもらししちゃったの?」
 早瀬さんの姿を見て、先生が躊躇いなく口にする。
 おもらし、という単語を聞いて、彼女の肩がびくんと跳ねた。ちら、と顔を見ると、耳まで真っ赤になっている。
「あ、あの、先生……!」
「ああ、大丈夫大丈夫」
 僕がなんとか言い繕おうとすると、先生は席を立って早瀬さんに微笑みかけた。
「あんまり落ち込むことないよ、大人だってやっちゃうときあるんだから」
 こくん、と早瀬さんは無言で頷いた。
「あの、僕が、具合悪いのかと勘違いして、保健室に連れていこうとしてしまって……」
「ああ、じゃあ汚しちゃったのは廊下? それなら、私が片付けてきちゃうから、早瀬さんはここで着替えてて」
「え、あの……」
 早瀬さんが戸惑った様子を見せたので、僕はとっさに口を開いてしまった。
「掃除、僕がします!」
「八木くんが? ……彼にされて嫌じゃない?」
 少しだけ驚いたように両目を瞬いた先生が、早瀬さんに確認する。早瀬さんは、頷いて、「……大丈夫です」と小さな声で呟いた。
 それが本音かどうかはわからないけれど、少なくともすぐに拒絶されなかったことに少しだけ安心する。
 もしかしたら、先生に見られるほうが嫌なんじゃないかと思ったのだ。僕は、もう目にしてしまったことだし。
「じゃあ、お願いね。そこにモップとかあるから持っていって。返すのはあとでいいから」
「はいっ」
 掃除用具入れを指差されて、そこからモップと雑巾、それからバケツを借りる。
「あっ先生」
「んー? 男子は早く出ていってほしいんだけどなー」
「あ、す、すみません!」
 振り返ると、先生は早瀬さんを奥のベッドへ連れていくところだった。ぐっしょりと濡れたスカートが思いきり視界に入ってしまい、慌てて目を逸らす。
「ただ、あの、早瀬さんのこのこと、誰にも言わないであげてください!」
「もちろん、言いふらしたりしないよ。着替えて何か言われたら、気分が悪くて戻しちゃったことにしようか」
 早瀬さんが頷いたのが、気配でわかった。
「じゃあ、そういうことで。はい、それじゃあ男子禁制ー」
「は、はい。失礼しました!」
 慌てて保健室を出て、ドアを若干乱暴に閉めてしまう。さっき、ちらっと時計を確認したら授業の残り時間はあと十五分だった。急いで片付けないといけない。

***

「はい、着替えここに置いとくね」
「あ……ありがとうございます」
 ベッドの上に着替えを置いて、先生は周りのカーテンを閉めてくれた。
 汚れた上履きと靴下を脱いで、床に敷かれたバスタオルに上がる。濡れて肌に張り付いた下着を苦労しながら脱ぐ。ぐっしょりと濡れたピンク色の布地を見て、胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。
 ――高校生にもなって、おもらしをしてしまった。
 小学生のときでさえ、こんな粗相をしたことなんてなかったのに。
 情けなく思いながら、洗面器に入ったお湯でタオルを絞り、濡れた下半身を拭く。
 本当は、昼休みにちゃんと済ませておくつもりだったのだ。お弁当を食べる前にトイレに行ったらすごく混んでいて、そのときはまだ余裕があったからあとでいいやと女子トイレを出てしまった。昼休みのうちに行っておこうと思っていたら、友達と話していたり担任の先生に用事を頼まれたりして、結局タイミングを逃してしまった。
 五時間目が始まってしばらくしたらもう我慢が限界に近付いてきて、授業を聞くどころではなかった。先生に言ってトイレに行かせてもらおうと思うのに、どうしても声を発することができなかった。
 授業中にトイレへ行く生徒は時々いるし、古文の先生がそれを咎めたことはない。
 恥ずかしいことではないと頭ではわかっているのに、先生を呼んで「トイレに行きたい」と一言口にするだけのことが、私にとってはものすごく難しい。授業中にトイレに立つことはやっぱり恥ずかしいし、どうして昼休みに済ませておかなかったのかと呆れられてしまうんじゃないかと考えているうちに、漏れそう、と身体が震えた。
 どうしようどうしようと困惑しながら、太腿をきつく寄せてひたすら耐えていた。
 そんなときに、隣の席の八木くんが、先生を呼んでくれた。
 どうして彼がそんなことをしたのか戸惑い、もしかして隣の席にばれてしまうほどトイレを我慢しているのがわかりやすかったのだろうかと恥ずかしくなる。
 教室を抜けることにはやはり抵抗感があったけれど、この機会を逃すわけにはいかなかった。保健室に行く、という名目で教室を出て、彼が歩き出したのはトイレとは逆方向だった。
 本当に具合が悪いのだと思われている。そうじゃないのに。ただ、おしっこしたいだけなの。もちろん、そんなこと口にできない。
「実はトイレに行きたいの」一言、そう言ってトイレに走ればいいのに、羞恥心が邪魔をして声が出せない。黙って踵を返すことだってできたのに、それもできなかった。
 だって、同級生の男の子に、漏れそうなほどおしっこを我慢しているなんて知られたくない。
 保健室についてから、近くのトイレに行けばいい。あと少し我慢すればいいんだ。あと少し、あと少しだけ。
 気を抜いたら溢れてしまいそうな重たいおなかを抱えて、八木くんのあとを必死に歩いていく。渡り廊下が見えて、ここを通れば保健室はすぐだ。彼にお礼を言って先に教室へ戻ってもらい、具合を聞く保健の先生に断ってトイレに行けばいい。
 あと少し。もう少し、なのに。
 ぞくぞくと背筋が震えて、下着が一瞬、温かく濡れた。とっさにその場にしゃがみ込む。
 だめ、だめだめ。ここはトイレじゃないんだから、まだおしっこ、でちゃだめ。
 必死に自分に言い聞かせて、スカートの裾を握り締めて括約筋に力を込める。それなのに身体は言うことを聞いてくれなくて、下着にじわじわと温かな感触が広がっていく。
 吸収されきれなくなった水分が、布地を突き抜けて、じゃああっと廊下に流れ落ちた。
 もう、だめ。我慢できない。止められない。
 張り詰めていた糸が切れたかのように、身体から力が抜ける。溢れ出る熱い水が、一気に勢いを増した。ぱしゃぱしゃと音を立てて、滝のように流れ落ちるおしっこ。これが全部自分の身体の中に溜まっていたものだと思うと、恥ずかしくてたまらなかった。
 目の前に広がる水たまりを見ていたくなくて、ぎゅっと目を瞑った。
 お願い、早く。早く止まって。そう願っても、限界まで我慢していたおしっこは全然止まらない。しゃあああ、ぴちゃぴちゃ、と耳に入ってくる水音に頬が熱くなる。
 ようやく水音が止んで、身動きできない私に、八木くんは優しく接してくれた。
 恥ずかしくて恥ずかしくて、穴があったら入りたいとはまさにこのことだと実感して、いますぐどこかに逃げ出したい気持ちでいたから、彼の態度は意外だった。
 中学生までに見てきた同い年の男子はやんちゃな子が多くて、言動が幼稚で、よくいじわるをしてきたり下品な話で盛り上がったりしていたから、正直苦手だった。
 八木くんにも、汚いとかきもいとか言われるかもって覚悟していたのに、そんなことはなかった。ただでさえ、高校生になっておもらしなんて、ありえないのに。絶対、引かれたと思ったのに。
 戸惑っている様子が伝わってきたけれど、嫌な気持ちになるような言葉は何も言われなかった。こんなに、優しい男の子って、いるんだ。
 保健室まで連れてきてくれて、掃除までしにいってくれて。……掃除されるのは、ちょっと恥ずかしいけど。でも、先生にあの水たまりを見られるほうがもっと恥ずかしいと思ったから、助かった。
 ――そういえば、お礼、ちゃんと言ってない。恥ずかしいけど、あとで言わないと。
 そんなことを思いながら、身体を綺麗に拭いて、借りた生理用ショーツを身に着ける。
防水布の擦れる感触が少し気になるけど、これは我慢するしかない。
 お尻のほうや裾が濡れてしまったスカートを脱いで、ジャージを穿く。上半身は制服で下はジャージだとちぐはぐだから、ブレザーも脱いで、ブラウスの上にジャージを着る。
 ファスナーを一番上まで上げてしまえば、中に着ているブラウスは見えない。吐いて制服を汚してしまったと誤魔化すことにしたけれど、これで本当に大丈夫だろうか。おもらししたこと、ばれないかな。
 着替えを終えて、おずおずとカーテンを開くと足元にスリッパが置いてあった。上履きも濡らしてしまったから、これを履けということだろう。
「……先生、着替え終わりました」
 机に向かって何か書類を見ていた先生にそっと声をかける。すぐに気付いて、ベッドのほうに歩いてきた。
「少しは落ち着いた?」
「は、はい……」
「授業中でも、トイレに行きたかったら我慢しないで行ったほうがいいよ。先生に言うの恥ずかしいかもしれないけど」
「はい……すみません……」
「私に謝ることないよ。嫌な思いしちゃったのはあなただしね」
 優しく微笑まれて、恥ずかしいけれど少しだけ胸の内が温かくなる。もっと、怒られるかと思っていた。
「授業、あと一時間だけどどうする? 早退する?」
「いえ……ちゃんと、出ます」
 少し迷ったけれど、体調が悪いわけでもないのに早退はしたくない。
「そう? それなら、授業いっておいで。あ、スカートとか軽く洗っておくから、帰る前に取りにきてね」
 どうしたらいいか困って、バスタオルの上に置きっぱなしだったスカートや下着を指差される。
「えっ、あの、自分で洗います!」
「でも、そうすると授業始まっちゃうよ?」
 時計を見るともうすぐ五時間目が終わるところだった。休み時間は十分あるが、もしも遅れてしまうと教室に入りづらい。
「……すみません、お願いします」
「ええ。あんまり気にしないでね。何か困ったことがあったら、いつでも保健室に来て」
「……はい。ありがとう、ございました」
 物心ついてから初めて粗相をしてしまってショックだったけれど、八木くんと先生に優しくしてもらって、落ち込んだ気持ちは少し回復していた。

***

「お、おはよう、早瀬さん」
「……おはよう」
 朝、席に着いて、隣の席で本を読んでいる早瀬さんに思いきって声をかけた。顔を上げて挨拶を返してくれたけれど、すぐにまた本へ視線を戻してしまう。それ以上かける言葉は思いつかなかったから、リュックを降ろしておとなしく座った。
 教科書を机の中にしまいながら、ちらと彼女の顔色を窺う。普段と変わらない、物静かで、少しクールな雰囲気の早瀬さん。もしかしたら今日は学校を休んでしまうかと思ったけど、そんなことはなかった。
 ――昨日の出来事はすべて夢だったんじゃないかと思うくらい、いつも通りだ。
 早瀬さんのことは、入学式のときから気になっていた。一目惚れ、だったかもしれない。
 最初の席替えで隣の席になったのは奇跡かと思った。仲良くなる糸口が見つからないかと日頃からタイミングを探っていたが、まさか、あんな姿を見てしまうことになるとは思わなかった。
 好きな女の子が、目の前でおもらしする姿、なんて。
 しかも昨日のことは僕と彼女だけの秘密だ。正確には養護教諭の先生にも知られてしまったけど、現場に居合わせたのは僕だけなのだから問題ない。
 おもらしの証拠隠滅をするという重大な任務は、無事に達成した。
 しかし、モップで大量のおしっこを拭き取っているときに、ひそかに興奮したなどということは口が裂けても言えない。
 アブノーマルな性癖を持ってはいないつもりだが、好きな子のおしっこを掃除するなんていう滅多に味わえないシチュエーションを経験してしまったのだ。変な気分になるのも無理はないと思う。
 汚いとか嫌だとか感じることはなかった。歳の離れた弟や妹の世話でおむつを替えたことだってあるし、それこそおもらしの後始末だってしたことがあるから、慣れているだけかもしれないけれど。
 保健室へ付き添っただけなのに、僕の戻りが遅かったことについてはもちろん疑問を持たれたが、「ちょっと、色々あって」の一言でなんとか誤魔化した。下手な説明をしてぼろが出るのを避けたかったからなのだが、結構緩い先生なのか、それ以上の追及はされずに済んだ。
 早瀬さんは六時間目が始まる少し前に戻ってきた。ジャージ姿になった彼女に一部の生徒が騒然として、仲の良い女子が心配そうに声をかけていた。
「ちょっと戻しちゃって。でも、吐いたらすっきりしたから……」と、早瀬さんは話していた。傍から見たら嘘を言っているようには見えなかったし、みんな信じたようだ。本当のことを知っているのは僕だけ、だけど。
 ――さすがに、おもらしをきっかけに仲良くなるなんていうのは無理だよな。早瀬さんだって、恥ずかしいから忘れたいだろうし。僕も忘れよう。うん。しばらく頭から離れそうにないけど、忘れる努力はしよう。
 そうして、また代わり映えのない一日が始まるかと思ったのだが。
「……八木くん。あの、日本史の教科書忘れちゃったから、見せてもらっていい?」
 三時間目のチャイムが鳴った直後、早瀬さんがおずおずと声をかけてきた。忘れ物なんて珍しいなと思ったけど、快く応じる。
「うん、いいよ」
 机をくっつけて真ん中に教科書を広げる。見えやすいように少し彼女のほうに寄せて。
 江戸幕府がどうの明治維新がどうのという話をなんとなく聞いていると、突然、早瀬さんからすっとノートが差し出された。とんとん、とノートの端に書かれた文字を指先で軽く叩かれ、目を凝らす。
【今日の放課後、空いていますか? 昨日のお礼がしたいので、都合が合えば付き合ってください】
 心臓が、どきりと高鳴った。震えそうな手で「いいよ」と書く。
 早瀬さんは一度ノートを自分のほうに引き寄せると、またすらすらと何かを書いて差し出してきた。
【一緒に教室を出るのは少し恥ずかしいので、〇×駅改札で待ち合わせでもいいですか?】
 学校の最寄り駅から電車で二駅の場所を示される。不都合はないので、「OK」と返事。僕としても彼女と一緒に学校を出て誰かにからかわれるようなことは避けたい。
【じゃあ、四時半に駅で】
 そう書いて、早瀬さんが僕のほうに顔を向けた。小さく微笑まれて、頷きを返した。

***

 ドキドキしながら放課後を待った。それ以降早瀬さんが接触してくることはなく、放課後になったら別々に教室を出て同じ電車の違う車両に乗った。
 本当に来てくれるのかなと、少しだけ不安に思いながら先に改札を出る。待った時間はほんの僅かだった。他の乗客に紛れてエスカレーターから降りてきた早瀬さんの姿をいち早く見つける。
「早瀬さん……!」
 小さく片手を挙げる。きょろきょろと周りを見渡していた早瀬さんは、僕に気付くと小走りで改札を出てきた。
「ごめんなさい、待たせちゃった?」
「全然。僕だっていま来たばっかりだから。でも、お礼なんて別にいいのに……」
 いい顔をしようとそんなことを言ってみるが、本当はものすごく嬉しい。
「私がちゃんとお礼したかったから……八木くん、甘いものって好き?」
「うん。好き、だよ」
 食べ物の好みを訊かれただけなのに、好きだと口にして妙に顔が熱くなる。
「よかったぁ。ここの六階にね、パンケーキのおいしいお店があるの。そこ行こう?」
「う、うん」
 頷いて、駅ビルのエレベーターに乗る。――早瀬さんと放課後デート。いや、付き合っているわけじゃないから厳密にはデートじゃないんだけど、周りから見たらもしかするとそう見えるかもしれない。急にこんな幸せなことがあっていいのだろうか。
 明日死ぬかもしれないと思いながら、早瀬さんの隣を歩いてレストラン街にあるカフェに向かう。僕一人では――いや、男友達と一緒に来ても入れないようなオシャレな内装のカフェに内心びくびくしながら足を踏み入れる。店内はほどよく空席があって、壁際の席に案内された。
 差し出されたメニューを開いて、目を剥きそうになった。ドリンクは安くても五百円、メインのパンケーキはどれも千円以上する。普段はファーストフードや安いファミレスにしか行かないから値段に慄いてしまう。
 お金、足りるかな。今月のお小遣いにはまだほとんど手をつけていないから、多分大丈夫なはず。
「私、奢るから。どれ頼んでもいいよ」
 早瀬さんが事もなげに言った。
「いや、そんなの悪いよ!」
「だけど、お礼だし。それに私が連れてきちゃったから……」
「いやいや、自分の分は自分で出すよ!」
 いくらお礼とはいえ、女の子に奢らせるのは男としてどうかと思う。
「そう……? あ、じゃあ、飲み物だけ! 飲み物だけ私払うから!」
「……それじゃあ、飲み物だけ、お願いします」
 食い下がる早瀬さんに根負けして、頷いてしまう。同い年の女の子に奢らせてしまうことには少し抵抗があるが、財布的には正直ありがたい。早瀬さんはほっとしたように表情を緩めた。
 改めてメニューを見るが、お店でパンケーキを食べたことなどないのでどれがいいのかさっぱりわからない。そもそもホットケーキとパンケーキの違いさえもよくわからない。一番安いものにしようかなと思いつつ、ちら、と向かいに座る早瀬さんを見る。
「早瀬さんは、なに頼むの?」
「ハニーバニラパンケーキ。一番好きなの」
「……じゃあ、僕も同じので」
 千五百円、という値段を確認して同じものを頼む。お小遣いしか収入のない高校生の財布には痛い金額だが、早瀬さんが好きなものを食べてみたいという欲求のほうが勝った。
 飲み物はカフェラテを、早瀬さんはロイヤルミルクティーを注文する。
「ここ、よく来るの?」
「時々かな。お母さんとか、たまに友達とも」
「へえ。……僕、こういうとこあんまり来たことないから、なんか緊張しちゃって」
 注文したものが届く間、ぎこちない会話が続いた。こんなときどんな話をしたらいいのかよくわからない。沈黙することが怖くて、学校のことやどこの中学校だったのかという話をする。昨日の出来事については、お互い触れなかった。
 話す話題が尽きかけた頃、注文したものが運ばれてきた。
 三枚重なったパンケーキの上にバニラアイスが乗せられ、蜂蜜がたっぷりとかかっている。白い皿に広がる黄金色の蜂蜜を見て、つい、昨日の早瀬さんの姿を思い出してしまった。知らず知らずのうちに頬が熱くなってくる。
 赤くなった顔を見られないように、少し顔を俯けてパンケーキを切り分けた。普段ナイフとフォークなんて使わないので上手く扱えない。雑に切った一切れを口に放り込むと、ふわふわの食感とほどよい甘さが口の中に広がった。
「……おいしい!」
 思わず、声に出てしまう。向かいで同じようにパンケーキを食べていた早瀬さんが、ふわりと微笑んだ。
「でしょ? 私、大好きなの」
 その笑顔と言葉に、また胸が高鳴る。――いやいや、大好きなのはパンケーキであって僕のことじゃないから!
 可愛すぎて直視できない。しばらくの間、黙々とパンケーキを食べ進めた。
 皿の中身がほとんど空になり、少しぬるくなったカフェラテを啜る。
 両手でティーカップを持ち紅茶を飲んでいた早瀬さんが、ふいにそっとカップを置いた。
「……あ、あの、八木くん」
 緊張しているような声が、鼓膜を震わせた。
「……はい」
「昨日は、ありがとう。色々、助けてもらっちゃって。……八木くんが保健室に連れていってくれようとしなかったら、私、きっと教室でやっちゃったと思う。だから、本当にありがとう」
 頬を染めて、恥ずかしそうにしながら話す早瀬さんの柔らかな声が耳に届く。
「男の子ってみんないじわるなのかと思い込んでたけど、八木くんは優しいんだね」
 そう言って、はにかみながら微笑む早瀬さんは本当に可愛くて。
 ――告白するならいましかない、と口を開く。
「あ……たいしたことじゃないよ。それより、早瀬さんがあんまり落ち込んでなくてよかった。おいしいお店も教えてもらっちゃって、僕のほうこそお礼言わなきゃ」
 言おうとした言葉と違うことを口にして、へらっと笑ってしまう。――この意気地なし。
 それ以上話すことはあまりなく、飲み物を飲み終えたら早々に店を出た。
 会計は分けてもらったが、先に支払いをした早瀬さんが約束通り僕の分の飲み物代も払ってくれた。店員さんの視線がなんとなく気になったが、気のせいだと思いたい。
 早瀬さんとは家の方向が反対らしいから、駅に着いたらお別れなんだろうなと寂しく思いながらエレベーターが来るのを待つ。さっきのタイミングを逃してしまって、一体いつになったら彼女に想いを伝えられるのだろう。これ以上仲良くなることなんて、できるのかな。
 後悔に駆られつつ、到着したエレベーターに乗り込む。が、早瀬さんが乗ってこなかった。ぼうっとした様子でどこかを見つめている。
「早瀬さん? エレベーター来たよ」
「あ、ごめんなさいっ」
 開ボタンを押したまま声をかけると、すぐに気付いて乗り込んできた。他に乗客はいないのでそのまま閉めてしまう。
 エレベーターはすぐに降下を始めた。名残惜しく思いながら壁に背中を預ける。目的の階まで数秒で到着するはずなのに、突然、ガタンと音がして止まってしまった。
「えっ……?」
 突然のことに困惑する。どうしよう。停電? でも、電気は消えていない。……そうだ、エレベーターが止まったときは全ての階のボタンを押すと動くとどこかで見たと思い出す。試してみたが、動くことはなかった。
「止まっちゃった……?」
「……みたい」
 戸惑った様子の早瀬さんの声になんとか応える。誰だって、乗っているエレベーターが急に止まったら困るだろう。
「えっと、とりあえず、連絡してみよう」
 これまでの人生で触れたことのない、非常連絡ボタンに緊張しながら指を伸ばす。
 しばらく押し続けると、インターホンから男性の声が聞こえた。管理会社に繋がったようだ。エレベーターが止まってしまった旨を伝えると、すぐに修理を手配するので待っているように言われた。
「三十分くらいで修理の人来てくれるみたい。早瀬さん、大丈夫? このあと予定とかない?」
「……大丈夫」
 奥の壁に寄りかかっていた早瀬さんは、少し眉を下げた表情で頷いた。どうしたのだろう。もしかしたら怖いのかもしれない。
「だ、大丈夫だよ! きっとすぐ動くよ!」
 なんとか彼女を励まそうと、全く根拠のないことを口にする。早瀬さんは、小さく頷いただけだった。
 ――三十分って、長いな。
 ちら、と携帯を見るがさっき時間を見てからまだ五分くらいしか経ってない。連絡をしてからは、二十分経ったかどうかというところだろう。
 早く動かないかな。好きな子と二人きりで密室にいるという状況に、変に緊張してしまう。早瀬さんもさっきからずっと黙ったままだ。
「……うぅ」
 ふいに、泣きそうな声が聞こえた。見ると、早瀬さんは両膝を擦り合わせて、スカートの裾をぎゅっと握っていた。一瞬、寒いのかなと思ったけど、その姿にぴんとくる。
「早瀬さん、……もしかして、トイレ?」
 思わず訊ねると、彼女は顔を真っ赤に染めて頷いた。
「え、えっと、我慢できそう?」
「……わかんない。あんまりできない、かも」
 不安そうな声が返ってくる。どうしよう、困った。また昨日のようなことになったら、彼女を傷付けてしまうんじゃないだろうか。
「修理、あとどのくらいかかるか訊いてみるねっ」
 慌てながら、再び連絡を取る。先ほどと同じ男性の声に、あとどのくらい時間がかかるか訊ねると、しばらくして返答があった。
「申し訳ありません。道が混んでいるようでして、修理の者が到着するまであと三十分ほどかかってしまうと思います。ご気分が悪かったり致しませんか?」
「三十分、ですか……?」
 早瀬さんに、「我慢できる?」と小声で訊ねる。
 返ってきたのは、首を横に振る返答だった。何とかならないだろうかと口を開く。
「あ、あの、僕、トイレに行きたくて! 我慢できないかもしれないんですけど……」
「それでしたら、エレベーター内の非常用品に携帯トイレが入っています。お困りでしたらお使いください。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
 言われた通りにエレベーターの中を見てみる。壁際にそれらしきものがあった。案内表示に従って収納ボックスを開けると、水やビスケット、救急セットなどの非常用備蓄品が入っていた。携帯トイレも入っている。
「えーと……使う?」
 携帯トイレとポケットティッシュを早瀬さんに差し出すが、首を振って拒絶された。
 ですよね。僕が同じ立場だったとしても、異性がいる場で用を足すなんてしたくない。
「えっと、無理に使わなくてもいいから、とりあえず持ってなよ。ほら、お守りみたいな? もしかしたら早く出られるかもしれないしっ」
 そう言うと戸惑いながら片手を差し出された。早瀬さんに携帯トイレを手渡すと、ぎゅっと掴んでそのまま壁に寄りかかりながらずるずると座り込んでしまった。もう片方の手で膝を抱えて身体を丸めている。つらそうだけど、どうしてやることもできない。必死に尿意を堪えている様子の早瀬さんをずっと見ているのは悪い気がして、慌てて目を逸らした。
「あの、僕、あっちいってるね! 僕のことは気にしなくていいから!」
 狭いエレベーターの中で精一杯、早瀬さんと距離を取る。
 彼女の姿を視界に入れないように背中を向けたが、音だけが耳に入ってきて妙に生々しい。「ん……うぅ……っ」小さな呻き声、荒い呼吸、スカートの布が擦れる音。
 考えてはいけないと思いながらも、早瀬さんがいまどんな恰好でいるのか、つい想像してしまう。数分も経たないうちに、突然、ばりばりとビニールの封を開ける音が聞こえた。
 どきり、と心臓が跳ねる。
「八木くん、絶対、こっち見ないでね……! 耳も塞いでて……!」
「は、はいっ」
 頷くと同時に衣擦れが聞こえて、慌てて両耳を手で押さえる。ほどなくして、しょろろ……と、微かな水音が耳を塞いでいても聞こえてきた。
 ――早瀬さんが、僕のすぐ後ろで、おしっこしてる……!
 顔全体が熱くなって、心臓がばくばくと音を立てた。しゃがんで、下着を下ろして、携帯トイレを内股の間に充てている早瀬さんの姿が脳裏に浮かんでしまう。必死に意識を逸らそうとしても、手のひら越しに聞こえてくる水音に聴覚が集中する。
 三十秒ほどで水音は止み、何も聞こえなくなった。もう、手外してもいいのかな。
 悩んでいると、つん、と後ろから背中を突かれた。びっくりして肩が跳ねる。
 後ろを向くと、恥ずかしそうな顔をした早瀬さんが立っていた。
「ごめんね、ありがとう。もう終わったから……」
「そ、そっか。大丈夫?」
「うん……」
 こくん、と頷いた早瀬さんの瞳から涙が零れた。
「早瀬さん!?」
「ごめん、なさっ……何回も、こんなことしちゃって。軽蔑、したよね……」
 目元を押さえながら呟く早瀬さんに対して、慌てて首を振る。
「軽蔑とかしないよ! 全然、嫌じゃないよ! むしろ好きというか……いや、あの、変な意味じゃなくてね!?」
 反射的に言葉が口から飛び出す。――ええい、こうなったら勢いだ。
「早瀬さんのことが好きです!!」
「……え?」
 早瀬さんの顔がみるみる真っ赤に染まった。多分、僕の顔も。
「に、入学式のときから可愛いなって気になっていました! 早瀬さんのことで嫌になることなんてありません! こんな僕でよければ付き合ってください!」
 勢いで頭を下げて、それから恐る恐る顔を上げる。早瀬さんは、口元に手を当てて固まっていた。
「ご、ごめん! やっぱり僕なんかじゃ嫌だよね……! いまのは聞かなかったことに」
「あ、えっと……びっくりしたけど、嬉しい、です」
 耳を疑った。思わず、まじまじと早瀬さんの顔を見つめてしまう。
「それって……」
「……はい。私でよければ、お付き合い、してください」
 ふわりと、頬を染めて早瀬さんが微笑んだ。
「……っ」
 嬉しさのあまり叫びたくなるのをすんでのところで堪える。そしてふと我に返ると、とんでもないタイミングで告白してしまったと気が付く。嬉しさと気まずさがないまぜになり、エレベーターを降りるまで早瀬さんの顔をまともに見ることができなかった。



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